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小学生たちがわいわいやっている教室のような会社の部屋に。元係長シムチオ(吉田重幸)がそっと入ってくる。『さようなら、シュルツ先生』の『年金暮らし』冒頭のシーンだ。その風景を見ただけで、ああ、MODEが戻ってきたのだという感慨が胸に拡がる。
MODEの松本修は、子供たちのシーンを得意としている。とても魅力的だ。子供たちは、大人がやってはいけないことを平気で、嬉しそうにやってのける。文字としては書かれていない世界を松本は子供性を使って見える形にしている。
松本は、小説そのものを台本に使う。だから稽古の最初に台本はない。俳優たちは、ワークショップで小説の言葉から形を作りはじめる。松本はそれをチョイスし、変化を提案し、組合せまた入れ替えて、場面を作る。他に類を見ない作り方だ。時間がかかる。しかし冒頭のシーンのように息のあった集団性が成立する。
シュルツの小説には不可思議で演劇にするにはなかなか厄介な登場人物が出てくる。特にお父さんは、ザリガニになったり、家で様々な鳥を繁殖したりする。おまけに女性の脚フェチだ。シュルツは画家でもあり、小説の場面と思われる脚に顔を寄せていく父親らしき男の姿が残されている。松本は役者を使って舞台に絵を再現している。
松本は、シュルツが文字や絵画で描いたフェティシズムを舞台に表現しているが、決して人間の動物的な欲望をダイレクトに表現しているわけではない。身体をもって言葉に入り小説に入る。身体の形をもって絵画に入る。その役者の身体をもって演劇を作りあげているのだ。
MODEの舞台は不可思議で怪しい松本/シュルツの演劇となって、私たちの前に再登場した。進化はまだ続く。目が離せない。
ある世代までにとっては、翻訳者である工藤幸雄の苦心によってか、東欧の文学としてゴンブローヴィッチやヴィトキエヴィチと同様に、戦間期における実験的な作家として知られていたといえるだろうか。美術作家であり、小説家であるブルーノ・シュルツ。ポーランドのユダヤ系作家であり、ナチスの将校に路上で撃たれて絶命した。
そのシュルツをモチーフにして、MODEを主宰する松本修が構成・演出して、座・高円寺で『さようなら、シュルツ先生』を上演した。MODEといえば、ひとつの軸にカフカ・シリーズの作品たちがある。二〇〇〇年代には、 世田谷パブリックシアターや新国立劇場で『アメリカ』、『城』、『審判』など、大規模な作品が続けざまに上演された。それは、公共劇場の黎明期という時代も相まってか、あるひとつの頂きともいえる優れた作品群を形成した。しばらく東京での活動を休止していたものの、昨年から再びはじめた。
もちろん、実際にカフカとシュルツの共通点はない。しかし、チェコとポーランドというユダヤ系の東欧の作家であり、マイナー文学であり、どこかしら二人には暗い時代のイメージがつきまとう。実際、シュルツの美術作品や小説にも、そこには鬱屈とした暗い時代を反映した雰囲気が漂っている。
それらは、この『さようなら、シュルツ先生』の基調となる。さまざまな小説のシーンによって構成される作品は、シュルツのいくつもの短編小説のイメージを重ねる。生前残した二冊の短編小説集から、「マネキン人形」、「砂時計サナトリム」、「年金暮らし」や「鳥」など、いくつもの小説が、一つの筋になるように構成される。むろん、理路整然とした物語とは決してならない。むしろ、小説に描かれていることをもとに、自由にイメージをつくるといった方がいい。たしかに、シュルツの小説も一筋縄ではいかない。分かりやすい物語はない。そこにあるのは、不思議な風景ともいえるような描写によって綴られるものだ。
そこに俳優たちがエチュードによって、演出家とそれぞれのシーンを創りあげていくMODEならではの手法がある。その自由さは、小説における描写の自由さが、俳優による身体によって、シーンを形作る自由さになる。それは、あるイメージをさらにあるイメージヘと転化することだ。
小説の小説たるゆえんである描写が、具体的なものとして浮かびあがることは、たしかに小説なるものを失うことではある。ただし、そのイメージによるシーンたちは、なにも物語を舞台化しない。少なくとも、そこで演じられるものは、小説を題材に具体化して演じるというより、描写によって受けるイメージを、イメージのままにシーンとして構成するようなのだ。だから、いくつものシーンたちの連なりは、描写によって描かれるさまざまな風景たちと同じように、まるでパノラマとなって流れていく。
たとえば、「砂時計サナトリム」を描いたシーンは、小説と同じように、列車のシーンからサナトリムヘ、そして見知らぬ街の娼婦のシーンヘと移行する。そこでは、観客は移ろいゆく景色を眺めるように、変わるシーンとその演じるものたちを見る。
むろん、そこにはシュルツの美術作品のイメージも重なる。美術教員であったシュルツのガラス版画の作品たちに描かれるモチーフには、暗い中に蠢くような願望としての、フェティッシュなまでの女性たちの足がある。たしかにそれは艶かしく、女性の俳優たちの足を魅せることにつながっている。その足は、サディスティックなものというよりも、マソヒズムのように魅力的なものにかしずきたいものの欲望となっている。
しかし、それだけではない。単なる男性の欲望といった紋切り型のことばを超えて、さまざまなシーンで、折に触れて女性の足たちは提示される。あるシーンでは、まるで陳列されたかのように女性の俳優たちの一列に並ぶ足がある。それは、やがてマネキンやオブジェのような足たちに見えてくる。女性の足なるものであれば何でもいいような、それこそ即物的に足なるものが浮かび上がってくるようなのだ。それは、欲望というものが、機械という装置となる瞬間を提示している。
むろん、それらを含めて、流れていくシーンたちは、どれほど生々しい人間の欲望があったとしても、消え去った暗い時代を背景としている。そこにあるのは、もはやいなくなった人々の群像なのだ。まどろみのような人々のイメージが、時に鮮烈に現れながらも消された風景がある。それは、MODEならではの、ある時代と人々を写す作品だった。
松本修が帰って来た。劇団モードを解散して関西に行ってから、何年ぶりだろうか。十月二十日、座・高円寺の「さようなら、シュルツ先生」である。
シュルツ先生とは何者なのか。私は知らなかったが、プログラムを読んで驚いた。ブルーノ・シュルツ。ポーランドの作家、ユダヤ人なのにナチス・ドイツのゲシュタポの息子の家庭教師になった。ある日買い物の帰途、路上でゲシュタポの「野蛮作戦」という無差別殺戮に出会って射殺された。この残酷な事実に驚いているうちに幕が開いた。
私はかつて松本修が再構成した作品によって、カフカやチェーホフの素顔を肌で感じた。今度は今まで知らなかったシュルツの感覚の世界に没入した。
退職してもなお昔の職場へ現れる彼、孫の様な歳の小学生の仲間に入る彼、動物と人間の区別がない様な世界に生きている彼。それがシュルツその人か、あるいはシュルツの作品の人物なのかは分からないが、そういう世界の感覚に生きる人間の姿が淡々と描かれて私の心に滲み通った。
かつて松本修が描いたカフカやチェーホフの世界が、淡彩であっても色が付いていたのに対して、今日のシュルツの世界は墨一色の、しかも柔らかでいてどこか硬質な手触りである。それがシュルツの世界の特質なのか、久しぶりに見る松本修の変化なのか私には分からなかったが、おそらくシュルツに惹かれた松本修の今日の感覚なのだろう。そう思いながら私はこの感覚が好きだったのだと改めて思った。
プログラムにはシュルツの事蹟のほかに、もう一つ大事なことが書かれている。それはなぜみんな芝居を分かろう分かろうとするのだろうかという疑問である。その通り。芝居は、今、ここで起きるもの、そこで感じるものである。しかしそういうことを言わなければならない程、今の劇界はわからないことに溢れ、そのために分からせよう説明しようとするものばかりが横行している。松本修のように何かを感じさせる作品は少ないのである。
さまざまなシーンが積み重ねられているこの作品は、むろんシュルツその人の人生を描くものではないが、彼の生きた世界の感覚を展開したものである。その世界は、孤独で、寂しい、静寂な世界であり、風のようにかそけく生きている世界であった。私はそういう世界に出会い、そして訣別した。
MODE ドラマスクールでは、MODE 独自のワークショップの方法をベースにしたレッスンを続けることで、「演技に対する誤解」を解き、あくまでも「自分の身体と声で役を作り上げる」ことを身に付けます。
演技未経験の方、学生の方、劇団研究生の方、シニアの方、そして、経験者の方、お待ちしております。
すでに開講し、チェーホフ『三人姉妹』の第3幕の場面を楽しく稽古しています。配役を交替しながらのワークショップ・スタイルです。
定員までまだ余裕があります。どうぞこれからでもご参加下さい!